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思いやりの原則

お疲れ様です。2020年度入社、プログラミングチームの後藤です。新潟からはるばる上京してEBAにやってきました。研修終了直後からのコロナ禍に翻弄され、いまはちょっと想定していなかった仕事をしていますが、社長をはじめEBAのみなさん、現場や関係者の方々に支えられているおかげで、なんとか東京生活を維持できています。本当にありがとうございます。

個人的に東京の人は優しい人が多いような気がします。車社会と違って見知らぬ他人との距離が近いので、マナーがより重視されがちなのかなと。地元ではずっと「東京なんてロクなところじゃない、人は冷たいし治安も悪いし」と言われて育ってきましたが、全然そんなことないじゃんというのが一年過ごして思う所感です。

メディアでは、連日渋谷や新宿で自治体の自粛要請に従わない若者をピックアップして報道し、いかにも「東京都民はマナーが悪い」という印象を視聴者に植え付けようとしています。しかし、自分に言わせれば都民は人口密度のわりに相当頑張っていると思うし、10万人当たり感染者数が他県と比べて少ないことにもそれが表れていると思います。

人は、ある集合の一部分だけを見て、あたかもその全体を理解したかのように錯覚してしまいがちです。これを代表性ヒューリスティックといいます。東京都民が1400万人もいれば、当然善い人もいれば悪い人もいるでしょう。私が東京に対して良い印象を持っているのも、誰かがテレビを見て「都民はマナーが悪い」と思うのも、どちらも全体のうち良い面・悪い面のどちらか一方しか見ていないという点では本質を見誤っています。

代表性ヒューリスティックのような現象は認知バイアスと呼ばれる「脳のクセ」です。私たちの脳は実は1万年前の狩猟時代からあまり進化していないと言われています。狩猟時代においては、代表性ヒューリスティックは生存のためにとても役に立っていました。

狩猟において、トラと出くわしたとき「トラは人を食べる」という偏見を持っている人はすばやく逃げられます。一方、「あれは本当にトラなのか?」「あのトラが人を食べるとはかぎらない」などと疑っているような人は食べられてしまっていたでしょう。その生存本能が私たちの遺伝子にいまもなお残っています。

しかし現代社会はここ1世紀くらいで急速に進化し、もはや脳の進化は追いついていません。特に情報社会を生きる私たちには、物事の本質を見極める「疑う技術」も求められるようになってきました。誰もが情報を発信し、誰もが尊重されるべき時代に向かいつつあるいま、あらゆる偏見は人類が協力して乗り越えるべきハードルとして認識されつつあります。

この「疑う技術」はクリティカルシンキングとも言われ、誰もが実践できるツールとして体系化され昨今教育現場で注目を浴びつつありますが、哲学の分野では何百年も前から「疑う」ことについての考察を深めてきました。

15世紀の哲学者ルネ・デカルトは、少しでも疑わしいものをすべて排除したときに残るものだけを受け入れようとしました(方法的懐疑) 。たとえば人から聞いた情報は、その人が勘違いをしている可能性が否定できない以上疑わしい。その時点で世の中のほとんどの情報は排除されることになります。

では、仮に目の前にコップがあったとして「目の前にコップがある」という情報はどうだろうか? 一見それは目に映る以上絶対確実にある事実のように思えます。しかしそもそもこの現実が、実は精巧なバーチャルリアリティの世界かもしれない。この視覚や感覚は超高性能なコンピューターが出力しているもので、自分という存在は実はそれにコードで繋がれた脳みそだけの存在かも……(水槽脳仮説)。そうなると目の前に絶対ありそうなコップも幻覚ということになります。突拍子もない話ですが、この仮説を否定できない以上、もはや世の中に疑えないものは存在しません。

しかし、デカルトは思いました。仮にこの世界そのものが虚構だったとしても、それを疑おうとしている自分の存在だけは否定できない。疑っている自分は少なくとも確実に疑えないと考えたのです。(「我思う、故に我あり」)

デカルトは、世の中には「私」以外に絶対確実に正しいものなど存在しないということを証明しました。しかし現実的に考えて、「人からの伝聞」すべてを排除してしまっては生活がままなりません。かといって聞き及んだ情報すべてを全部鵜呑みにするのも考えものです。そこで、クリティカルシンキングでは「ほどよく疑う」ことによって情報を吟味していきます。物事を順序立て、どこまでなら確実に正しいと言えるかを慎重に見極めていきます。

たとえば先ほどの例を挙げると、「都民はマナーが悪い」という主張(結論)があったとします。そこには必ず根拠となる情報が付随し、これを「前提」といいます。この場合は「テレビで路上飲みしている人を見たから」を前提とします。そして、前提と結論のつながりのことを「推論」といいます。路上飲みをしている人がいたという事実から、「都民はマナーが悪い」という主張は果たして導くことができるのか、ということですね。哲学では、この前提+推論=結論のセットを「議論」と定義します。このとき、前提と推論が妥当であると認められたならば、結論も妥当であると認められます(三段論法)。

つまり、大事なのは表面的な結論よりもそれを支える前提と推論がどうなっているかです。しかし、これを考える上では落とし穴がたくさんあります。たとえば、「テレビが報道しているなら正しいに違いない」というように、何か権威のある人・メディアが言っていることは絶対に正しいと誤認してしまうことが挙げられます。このように、議論そのものよりもそれを主張している人の権威によって信じるかどうかを判断することを「権威に訴える論証」といいます。

反対に、「誰々さんの言うことなんて間違っているに決まっている」というような決めつけも誤りで、これは対人論法といいます。クリティカルシンキングでは、主張している人でその主張を判断してはいけません。たとえば昨今、新型コロナウイルス関連のニュースで、よく「感染症学の専門家」と紹介されて大学の教授などが意見を述べていますが、彼らはあくまでも既存の感染症のエキスパートであって新型コロナウイルスの専門家ではありません。コロナ禍がこの先どうなるかなどは彼らにもわからないわけです。専門家だからといって情報を鵜呑みにしないように気をつける必要があります。

また、私たちは意識的にしろ無意識的にしろ、基本的に自分“だけ”は物事を正しく認識していると思いがちです。たとえば私たちは、あるものや人に対していったん「これは○○だ」という確証を抱くと、その考えにとって有利な側面しか見えなくなるというクセを持っています。これを確証バイアスといい、世の中の偏見は基本的にこれが原因となっています。

ある上司が、新入社員が初日にあくびをしているのをみて「この人はダメなやつだ」と考えたとします。すると、その新入社員がたまたま遅刻したり、仕事でミスをしたりすると、上司にとってはそれらの行動が強く印象に残ります。「やっぱり俺の思っていた通り、この新人はダメなやつだ」と思うわけですね。しかし一方、その新入社員が頑張って作業を時短したり礼儀正しく振る舞っていたとしても、上司の記憶にはなかなか残りません。なぜなら、それらの情報は新入社員はダメなやつだと主張したい上司にとって都合が悪いからです。もしも新入社員の良い行動を受け入れてしまったら、上司は自分の考えを撤回しなければなりません。

仮に新入社員がそのまま頑張り続けたらどうなるでしょうか。良い部分はいっさい評価されず、悪い部分だけがピックアップされるようになると、上司以外の周りの人のみならず、新入社員本人でさえも「自分はダメなやつなんだ」と思ってしまいます。こういったケースは、上司が「新入社員は出来が悪い」という誤った認識が現実になってしまうことから、「予言の自己成就」といいます。

このように、物事の本質を見極めるためには数多くの落とし穴があります。これらは人類普遍の欠点であり、個人の責任ではありません。しかし昨今の社会は、道徳という形でこれらの欠点を克服することを私たちに求めています。では、私たちはどうすればよいのでしょうか? これに関しても、哲学にヒントがあるので紹介します。

哲学では、議論の大原則として「思いやりの原則」というものがあります。これは、そもそもコミュニケーションの基本道具である言葉というのは曖昧なため、解釈する側が自由に意地悪に解釈することも好意的に解釈することも可能で、解釈する側に任せていたらあらゆる話し合いができなくなってしまうためです。ですから、哲学では聴く立場の人は可能なかぎり相手の真意を汲み取ってあげて、その筋に沿った形で主張を再構成してあげることが大前提として要請されます。逆に、相手の主張を歪めて解釈し、歪んだ主張に対して反論を行うことを藁人形論法といいます。

私見ですが、昨今はこの藁人形論法を使って相手を論破することで自尊心を保っているような、余裕のない人がネット上に増えてきたように思います。上述の確証バイアスの上司の例にもある通り、人は基本的に自分だけは正しいと思いがちな生きものです。他人を否定せずにいられない人は、自分の正しさに自信がない人なのではないでしょうか。つまり、「他人が間違っているということは自分は正しい」という論理を信じているということです。

哲学では「AではないということはBである」というような考え方は誤った二分法と呼ばれます。AとB、どちらも間違っているかもしれないし、そこに挙げられなかったCが正しいのかもしれません。これは、たとえば「教育は子どものためにあるのか、それとも国のためにあるのか?」のような二項対立を問われた場合に陥りがちな落とし穴です。そういう風に聞かれると、あたかもどちらかは正しいような気がしてきますが、実際にはそうとはかぎりません。

以上見てきたように、物事を批判的(クリティカル)に捉えるという営みは、表面的な主張だけではなく、言外の意味や背景をも包括的に捉える必要があり、そこには認知バイアスをはじめとした人が陥りがちな落とし穴がたくさんあります。これらを乗り越えて物事の本質を掴むのはなかなか簡単ではありません。逆に言えば、事実を誤認するということはきわめて起こりやすいということです。

いま、私たちは時代の節目に立っていると思います。新型コロナウイルスがどうなるのか、終息後の世界はどうなるのか、誰にも分かりません。仮想通貨や株の金融バブルでイーロン・マスクのような富豪がさらなる大富豪になっていく一方で、ワクチン接種が諸外国より二周も三周も遅い日本はアフターコロナ時代に取り残され、今後数十年をかけて静かに衰退していくだろうと悲観している人もいます。

しかしそれらはどれも表面的なことであって、事実はわかりません。デカルトに言わせれば世の中に絶対の真実は「私」しか存在しないわけで、そもそも一元的に「AはB」と論じることが果たして正しいのかさえ疑問です。そうやっていろいろな物事もほどよく疑っていけば見えてくる景色もあるのではないでしょうか。

思っていたより早くブログ執筆の出番が回ってきてしまったのであまり深掘りできませんでした。拙い文章ではありますが、これが誰かが何かを考えるきっかけになってくれたら幸いです。

ここまで読んでくださり、ありがとうございました。
引き続きお仕事、頑張っていきましょう。

◆参考文献
・伊勢田哲治『哲学思考トレーニング』(2005年 ちくま新書)
・鈴木宏昭『認知バイアス 心に潜むふしぎな働き』(2020年 ブルーバックス)
・E.B.ゼックミスタ/J.E.ジョンソン他『クリティカルシンキング入門編』(1996年 北大路書房)
・苫野一徳『はじめての哲学的思考』(2017年 ちくまプリマー新書)

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